- 2016-12-12
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後藤又兵衛こと後藤基次は、大河ドラマの「真田丸」でも哀川翔さんが演じて活躍しましたが、先日、人気TV番組「鶴瓶の家族に乾杯」でも宇陀の又兵衛伝説について紹介されていましたね。史実では又兵衛は、現在の大阪府柏原市の玉手山公園の辺りで伊達家の鉄砲隊に狙撃された、とされています。
これに対して、又兵衛が生き延びて大坂を脱出したという伝説は全国各地にいくつか残されていて、宇陀の本郷字道辺寺にある薬師寺の境内には墓石が残っています。又兵衛は、豊臣家が滅びた後は、僧侶となって宇陀の地で余生を過ごしたと語り継がれ、その墓石には『法泉院量嶽安寿居士』と彫られています。また、有名な又兵衛桜(本郷の瀧桜)の名前も又兵衛の屋敷跡にあったという言い伝えから命名されたものだそうです。
ここまでは、よくある歴史上の英雄が「実は生き延びていた」説なわけですが、大阪府堺市にある南宗寺に伝わる逸話には、やはり後藤又兵衛が登場するのです。南宗寺は、千利休が修行し、茶の湯を発展させる拠点となった名刹でもあるのですが、何とここには徳川家康のお墓があるのです!
この伝説は、大阪や堺辺りでは、江戸時代ごろから語り継がれ、結構有名な話らしいのですが、「大坂夏の陣の時、真田幸村の奇襲を受けて輿にのって逃げ出した家康。しかし大坂方の猛将・後藤又兵衛は怪しいと睨んで槍でついた。家康はそのまま南宗寺で絶命。しかし死去はふせられ、家康の影武者が活躍。家康の遺体はひそかに日光東照宮へ運ばれ葬られたという(堺観光ガイドより引用)」と言うものです。しかし、この槍で突いたというのは、時系列的には後藤又兵衛が鉄砲隊に狙撃されたよりも後の話なので、この辺りが又兵衛が生き延びていたという伝説につながって行くのかも知れません。^^
この徳川家康死亡説を裏付ける史実や物証らしきものもいくつか残されていて、例えば、徳川家の二代将軍・秀忠、三代将軍・家光がともに堺の南宗寺までわざわざ参詣していることや、「日光東照宮」に保存されている「網代駕籠」の天井部分に、まるで馬上から槍で突かれたような穴が空いていることなどが挙げられています。
ちなみに現在の南宗寺は、場所を変えて再建されたもので、境内にある「徳川家康の墓」の墓石は、昭和20年戦災で焼失した堺東照宮の跡に水戸徳川家の家老の末裔である三木啓次郎氏によって、昭和42年(1967年)に建てられた新しいものです。寄贈者として松下電器産業(現パナソニック)創業者の松下幸之助の名前も刻まれています。しかし、その近くの碑には「無銘ノ塔 家康サン諾ス観自在」(無銘の塔は家康のものと承認しました)と彫られており、こちらは、幕末の山岡鉄舟の筆とされています。
南宗寺へは大阪の天王寺駅から阪堺電気軌道 上町線(路面電車)浜寺駅前行に乗車、御陵前駅で下車徒歩約5分
大阪府堺市 堺区南旅篭町東3丁1
なお、近くには、豊臣秀吉が命名したと伝わる銘菓「くるみ餅 」の老舗「かん袋」があります。